平安神宮、東京築地本願寺の建築家として知られ、明治時代、「建築」ということばをわれわれ日本人の言語生活に定着させた建築家・伊東忠太(1867−1954)。日本で最初の建築史家でもある忠太は、日本最古の建築・法隆寺の建物がギリシャ起源だとの説を打ち立てる。その理論は、アレクサンダー大王の東征に伴ってギリシャの痕跡を残す仏教発祥の地、インドから、仏教伝播の経路に乗って中国・朝鮮経由でやってきたというものだった。忠太の論拠は、法隆寺とギリシャの建築両方が、柱にエンタシス(胴張り)を持つというものだった。だが、法隆寺をギリシャにつなぐこの建築理論は、じつのところ、ギリシャ・ローマに始まる西洋古典建築を頂点としてヨーロッパ人が作り上げた、当時のヨーロッパ至上主義の「建築史」の価値体系への反発からはじまったものだった。

1902(明治35)年、忠太はこの理論を証明するため、3年3ヶ月の世界一周旅行に出発する。中国、ブルマ、マレー、インド、オスマン帝国、ヨーロッパ各国、アメリカ合衆国をたどったこの旅の過程で、忠太の関心は次第に変わり、今日われわれが「東洋建築」とよぶもの、あるいはいわゆる「イスラム建築」と呼ばれるものを、日本からの視点で考えはじめる。帰国後忠太は、ヨーロッパ発信のものとは全く異なる、歴史的・地理的・民族的な文脈を含み込んだ、独自の「世界建築」のダイヤグラムを創案した。

オスマン帝国での見聞に重点を置きながら、講演は、忠太の冒険と、「世界建築」への視座について探求する。パリでの講演は、忠太のパリ見聞スペシャルヴァージョンを入れる。忠太自身によるドローイング、本人撮影の写真画像、新発見資料多数。